作家テキスト(「クインテット」展より)
夏には、夜毎蝉の幼虫が、羽化の場所を求めてアスファルトの道に這い出てくる。猫は道の真ん中でひんやりと寝そべり、蜘蛛はまたたく間に糸を伸ばして目の高さで私を遮る。
濃紺の空では上のほうが渦となって大きくうごめいている。私は歩きながら、迷い蝉の幼虫を街路の植え込みに還す。
こうした夏の夜の文。受け取る作業は穏やかで、この世界の、ごくありふれた確かな営みがうかがえる。彼らは今という居場所に逆らうことをしない。
このところ、人の力は少し早くなった。加速しすぎているように思えて恐ろしくなる。私たちの居場所で人が及ぼす力のことを考える。
「盲目になる」という言葉がある。盲目とは視力が失われることだが、一方で、分別がつかなくなるほど周囲が見えない様子をあらわす。夢中になるさまは些かはた迷惑の場合もあろうが、本人は無意識で、見えていないことに気づかない。これとは別に、見ることができるのに意識的に目を逸らしてしまうこともあるだろう。それは盲目とは言えないか。
あるいは、この目で確かめたことですっかり知り得たと決めてかかることもまた、実のところ、見えていないのかもしれない。
ものごとを、見ようとする、見ない、見るという考えにも及ばない、と並べるなら、その意識には大きな隔たりがあるようだ。
人の暮らしでは目を塞ぎたくなることもある。
塞ぎすぎてしまう場合もある。だけども、無視してはいけない時があることを皆知っている。答えは決して定まらず、真実が適切なものかさえも判らないが、ものごとを見つめる視力について、時々考えている。
描くことは考える行為でもあり、さまざまな想いや現実が通り過ぎる。今、繰り出されるものの姿に、そのありように、画面が応じてくれないものだろうか。